ISAMU NOGUCHI
1904-1988
イサム・ノグチは、日本人の詩人であり英文学者の野口米次郎とアメリカ人で教師で編集者のレオニー・ギルモアとの間にロサンゼルスで生まれました。 幼少期を日本で過ごし、アメリカ、フランスで彫刻を学んだノグチは、気鋭の彫刻家として活躍します。とりわけ戦後、東西の芸術精神を融合した多岐にわたる彫刻を制作し、従来の彫刻の域をはるかに広げた、大地の彫刻ともいえるランドスケープ・デザインを次々と発表するなど、その豊かな芸術性と表現力によって、20世紀を代表する彫刻家のひとりとして知られています。
「大地の彫刻」誕生へのあゆみ
1988年3月、ノグチは初めて札幌を訪れました。札幌のある起業家から、「札幌なら長い間温め続けてきた数多くのプレイグラウンドのアイディアを実現できるかもしれませんよ」。そう誘いを受けたのです。 世界的な彫刻家であるノグチが札幌を訪れると聞き、札幌市はぜひ作品を設置して欲しいといくつかの候補地を提案しました。挙げられたいくつかの候補地の中で、ノグチは既に建設がはじまっていたモエレ沼公園に強い関心を寄せます。 ノグチが訪れたとき、モエレ沼の内陸部は不燃ゴミの埋め立て地として利用されていました。ゴミの舞い散る大地に立ち、ノグチは「人間が傷つけた土地をアートで再生する。それは僕の仕事です。」と言い、モエレ沼公園の計画に参加することを希望しました。
公園の下見をするノグチ
遺された2000分の1の模型
この公園事業に強い関心を持ったノグチの期待に応え、札幌市は公園の設計を委託。「公園全体がひとつの彫刻作品」という考え方がノグチから提示され、周辺の環境や景観との調和をはかりながら、ダイナミックな地形造成を行うというマスタープランが、瞬く間に形づくられていったのです。モエレ沼公園を訪れてから8ヶ月後の11月17日、ノグチの誕生パーティーではモエレ沼公園の2000分の1の模型が披露されました。 ところが、予期せぬことが起こりました。ノグチが急病のためこの世を去ってしまったのです。モエレ沼を初めて訪れてから9ヵ月後のことでした。
札幌市では、マスタープランが完成済みであることと、詳細の指示を受けていたイサム・ノグチ財団の監修と活動を支援してきた人々の協力を得られることになったことから、公園造成を継続することに決定し、ノグチの亡くなった翌年から本格的な造成工事がスタートしました。 そして、1982年の造成開始から23年後、ノグチが設計に参画した1988年からは17年後の2005年、モエレ沼公園は最後の施設である「海の噴水」の完成とともにグランドオープンしました。 ノグチの遺作ともなるモエレ沼公園は、札幌市の最重要テーマである「環境と文化」を見事に具現化したモデルケースであり、この公園の誕生は、札幌の歴史に誇りある新たな1ページを刻み込んだのです。
2003年8月 造成途中のモエレ沼公園
イサム・ノグチ略年譜
1904 |
ロサンゼルスに生まれる。 |
1907 |
母と日本に移り住む。 |
1918 |
単身渡米。彫刻家を目指す。 |
1924 |
レオナルド・ダ ・ヴィンチ・スクールに入学、彫刻を学ぶ。 |
1927 |
グッゲンハイムの奨学金でパリに留学。ブランクーシのアトリエで働く。 |
1930-31 |
パリ、モスクワ、北京、日本をめぐる世界旅行に出る。北京では斉白石に水墨画を学ぶ。京都では禅寺をめぐり、日本庭園に魅了される。 |
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1949-50 |
メキシコに滞在し、壁面レリーフ制作。 |
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1949-50 |
ヨーロッパ、エジプト、インド、日本を旅行。 |
1951 |
〈あかり〉のデザインを開始。
北大路魯山人に学び、素焼きの作品を制作する。 |
1952 |
神奈川県立近代美術館で個展開催。 |
1956-58 |
パリのユネスコ本部の庭を制作。 |
1961 |
NYのロング・アイランド・シティにアトリエを構える。 |
1968 |
ホイットニー美術館で回顧展。 |
1969 |
香川県牟礼町にアトリエを設ける。 |
1970 |
大阪万博のために噴水を制作。 |
1978 |
「ノグチのイマジナリー・ランドスケープス」展開催(ミネアポリスのウォーカー・アート・センター他巡回)。 |
1980 |
ホイットニー美術館50周年記念イサム・ノグチ展開催。 |
1985 |
ロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム一般公開始まる。 |
1986 |
第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表となる。 |
1987 |
レーガン大統領より国民芸術勲章を授与される。 |
1988 |
春の叙勲で勲三等瑞宝章を授与される。
モエレ沼公園の設計を行う。(5月~11月) |
1988.12.30 |
ニューヨークにて永眠。 |
作品紹介
OMPHALOS オンファロス
制作年:1988年 素材:庵治産花崗岩 サイズ:高さ45cm、幅115cm、重量800kg 寄贈:2013年11月17日 服部裕之氏/株式会社B.U.G
《オンファロス》は、イサム・ノグチがモエレ沼公園の基本設計に携わることとなったきっかけを作った株式会社B.U.Gに寄贈した作品です。1988年当時、新さっぽろのテクノパーク内に建設していたB.U.Gの社屋は、のちにモエレ沼公園の設計を行うこととなるアーキテクトファイブが担当しており、ノグチも数度建設途中の工事現場に訪れたそうです。新社屋にプレゼントされた作品は長年B.U.G社に置かれていましたが、前社長服部裕之氏のご厚意により、イサム・ノグチの109才の誕生日である2013年11月17日に、モエレ沼公園へと寄贈されました。 タイトルの「オンファロス」はギリシア語で「へそ」、「中心」を意味する言葉で、古代ギリシアのデルフォイに代表される、「世界の中心」を示すという石の遺物の名称でもあります。新しい舞台であるガラスのピラミッドでは、その頂点の真下に作品を設置しています。ノグチの作った新しい「世界の中心」たる《オンファロス》は、蹲い(つくばい)状の石彫作品です。石の中心部からは水が湧き出ており、石肌を伝って地面へと流れ落ちていきます。水を含んだ石はガラスから差し込む陽光を浴び、静謐な美しさを湛え、来館者をひっそりと出迎えてくれます。
BLACK SLIDE MANTRAブラック・スライド・マントラ
所在地:札幌市中央区大通西8丁目 制作年:1992年 素 材:アフリカ産黒花崗岩 サイズ:高さ3.6m、幅4m、重量80t
滑り台でもあるこの彫刻は、《ブラック・スライド・マントラ》と名づけられています。1986年のベネツィア・ビエンナーレで発表され、現在はフロリダ州マイアミ市のベイ・フロント・パークに設置されている《スライド・マントラ》(高さ2.8m、重量60t、白大理石)シリーズのひとつです。特異な建築物として知られるインドの遺跡ジャンタル・マンタルの天体観測所に影響を受けて制作されたと言われています。 札幌市を視察している際に、大通公園に強い関心を持ったノグチが、子供たちの遊び場をより楽しいものにすること、大通公園の一つの象徴としての遊び場をつくることを考え、雪の白と対照的な黒御影石を素材に選び、ひとまわり大きなスケール(高さ3.6m、重量80t)として、この空間に置くことを決定しました。ノグチの没後、1992年6月6日に除幕式を行い、翌1993年大通西8丁目と9丁目の道を封鎖して現在の場所へ移設しました。 《ブラック・スライド・マントラ》は、モエレ沼公園と札幌市の中心部を結びつける重要な役割も果たしています。未来を担う子どもたちが彫刻にじかに触れ、上がったり、滑ったりすることによって彫刻を理解するとともに、人間を、大地を、宇宙を大いに讃歌することを願って制作されたものです。